かつて元号は誰によって考案されていたのか
知ってそうで知らない日本の「元号」基本の“き”②
■なぜ日本の元号は大化から始まったのか?
645年の乙巳(いっし)の変に始まる「大化の改新」は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって行われた国内改革だ。しかし当時の日本にとって重要な課題とは、国内よりも外交問題であった。
618年、大陸には強大な唐という帝国が誕生した。当時の日本は朝鮮半島南部で採掘される鉄の利権をめぐり、高句麗や百済と密接な関係を結んでいた。ところが唐はこの両国を滅ぼし、日本に対して外交的な圧力を強く及ぼすこととなった。
東野周辺諸国は属国に近い立場に甘んじて歴代中国の元号を採用し、恭順を示した。そうしたなか、独自の元号である「大化」を創建した日本は、唐に対して独立国家であると言う意気込みを示したことになる。
ところが、この「大化」という元号はあまり普及していない。孝徳天皇は次の元号を「白雉」に改元する。それから32年の空白を経て、続く天武天皇の時代に「朱鳥」に改元されたが、同様に普及はしなかった。年月は経ち、701年の「大宝」になり初めて公文書には元号を用いることが法制化されたのである。
この「大化」という元号の創建については諸説ある。この元号が『日本書紀』にのみ記載されたものであり、確実な遺物から発見されていないことなど、いくつかの理由があるため、様々な憶測を呼んでいるのだ。
しかし、『日本書紀』以外から記載が見つからないのは、当時の強大な唐の存在とその影響力を考えればわからなくもない。例え独自の元号を建てても、国内ですら広く使うことは、国内ですら広く使うことは、はばからざるをえなかったからだとも考えられるからである。
〈雑誌『一個人』2018年5月号より構成〉
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